アラフィフバツイチの生活

おひとりさまもいいけど再婚もね。ユル婚活はじめました。汚部屋以上ミニマリスト未満で断捨離もユル派です。

断捨離をすると何か人生に新しいものが入ってくる --- たまたまかも知れませんが(二回目の断捨離)

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わたしは、離婚にいたる中で初めて大がかりな断捨離をしたあと、青空のようなすっきりと晴れ晴れとした気持ちで過ごしていました。

 最近、他の方のブログを読んで「なるほど!」と思いましたが、その言葉を借りれば、まさに「結婚生活の断捨離」でした。

そして、新しい出会いにも恵まれ、とても楽しく幸せな時期を過ごします。ですが、それがあまり長くは続かず、再び迷いの森に足を踏み入れていきます。

そういうときに出会ったのがカレン・キングストンの『ガラクタ捨てれば自分が見える』という名著でした。

 

この本との出会いが、ある意味、自分の本当の転機になりました。

 ガラクタを処分しまくりました

このときは、インテリアなどの大物も含めて、結婚生活から持っていたものや、思い出の物なども殆どすべて捨てました。また、デスクなど必要な物は、新品のものに買い替えました。後悔は全くありません。

カレン・キングストンの『ガラクタ捨てれば自分が見える』という名著は、本当に、「物を捨てさせるパワー」が絶大です。

この本に関する記事はコチラです。わたしの「断捨離のバイブル」カレン・キングストンの本

この本を読んで、それまでガラクタだと思っていなかったものさえ、ガラクタだったのだと気づきます。

また、以前はガラクタではなかったものも、時が経つとガラクタに変容してしまうこともあります。最初の断捨離から一年くらい経過していました。

特に大量の音楽CDを処分したのを覚えています。音楽って、過去の思い出にすごく結びつきが強くて、かつて好きだった曲も、妙にセンチメンタルな気分を誘発するので、殆ど聴かなくなっていました。

また、古い日記も捨てました。わたしは、かつて日記は、何か不満をぶちまけるためのツールとして利用していました。

最初からそんな目的で書き始めたわけではありませんでしたが、嬉しいと日記って、あまり書きたいとなぜか思わなかったのです。

嫌なことがあると、愚痴や悪口を書いていました。外に漏らさなかっただけ、幸運だったと思っています。日記をちょっと開いてみて、その悪の言霊パワーに窒息しそうになりました。

二度と読む必要はない…どころか、二度と読んではイケナイシロモノでした。シュレッダーはありませんでしたが、カッターやハサミで、全部切り刻んで捨てました。アレもこれも、ガラクタと思われる物は、徹底的に処分しました。

座禅に出会う

それで、殆ど根こそぎと言っていいほど断捨離しましたが、恋愛の方はうまく行きませんでした。悩んで、本屋に行きました。

わたしは、何か悩むと、以前は本屋に行くクセがありました。今はありませんが…。

 それで、本屋の

「運がよくなるナントカの本」とか、

「恋愛のナントカの本」とか、

「愛されるためのナントカの本」

みたいな本がたくさん置いてあるコーナーに行きました。

そんな本たちに混ざって、何故か一冊だけ、座禅の本があったのです。これ、不思議すぎるシンクロニシティだなって、今でも思います。わたしは、それまで仏教のブの字もないような人だったのです。

大いなる何者かが、わたしに恋愛をさせ、失恋させて、断捨離をさせて、恋愛とか運がよくなるような本のコーナーに脚を運ばせて…そこに座禅の本を一冊だけ混ぜておいて、わたしにそれを読むように仕向けた…!

という気がします。気のせいかも知れませんが。たまたま本屋さんの店員さんが間違えただけなのでしょうけど、その間違いがなかったら、わたしは、そこでその本を見つけなかったのです。

その本を購入して、座禅をやってみたくてたまらなくなりました。このようにして、わたしはしばらく座禅というものにハマることになります。座禅をきっかけに知った、仏教の深淵な教えは、とても感動的で、それに惹かれて座禅をやっていました。

ただ、周囲の人の中には、わたしが、離婚して、淋しさに気がおかしくなって、座禅などという厭世的なオカしなものにハマったのだと誤解していた人たちもいたかも知れません

 確かに、離婚して、失恋して、という流れがなければ、わたしは仏教には出会わなかったとは思います。そして、苦しさがあったのも確かです。でも、それがミソらしいです。

幸せすぎないところがむしろ幸せ

仏道に出会う条件としては、適度な幸せと、適度な苦痛が必要なのだそうです。

 適度な幸せというのは、ある程度の物質的に恵まれた生活です。

あまりにも極端な生活困難のような、物質的に恵まれない状態だと、生きるのに精一杯で、そもそも修行をしようなどという気持ちの余裕が持てず、ダメなのだそうです。

 また、あまりにも幸せ過ぎると、そもそも人生というものに疑問や悩みを抱くことがないため、これもまた仏道への妨げになるのだそうです。

 ですから、「仏道に出会う」という観点から見れば、私は、最高に恵まれた状態だったと言えます。

※今は、修行はサボっています。ものぐさですので、よくサボります。

幸せすぎないところがむしろ幸せというのって、実は結構あるような気がします。

一見不幸に思えるようなことがあったからこそ、私の場合は、断捨離に出会えたり、仏教に出会えたり…。他にも、健康が気になったのがきっかけでヨガに出会うとか…。

その人にとっての良きものに出会えます。こういうことって、わたしに限ったことではないと思います。そして、その後の人生は、以前よりもずっと良くなって行ったりします。

そう考えると、不幸みたいなものも、案外捨てた物ではないな、などと思います。だから、「結婚=幸せ」「離婚=不幸せ」って決めつけるのもどうかと思うんです。